集中力とBGM、ラジオとノイズの関係に思うこと
作業用BGMって大事ですよね
「作業に集中するときに最適なBGM配信サービズ」みたいなタイトルで、オススメのBGMのまとめ記事が定期的にUPされますよね。
YouTubeとかAmazonから抽出したという触れ込み、実際には中国にあるサーバとか中国の音楽配信サイトのAPIの利用というのが実態らしいですが、こういうサービスを利用している方は少なくないと思います。海外のサービスだとMusictonicとかYes Yes Y'allというサイトがよく話題になります。
かくいうボクも、作業に取り掛かるときはBGMを聞きながら…というのが自然になっています。なかでもお気に入りなのがCoffitivityというサイト。いわゆる環境音というのでしょうか、「Morning Murmur(朝のカフェの音?)」とか「Lunchtime Lounge(昼食時の雑踏?)」とか「University Undertones(大学内のカフェの喧騒でしょうか?)」というような、身の回りに溢れている地味~なBGMを聞かせてくれるサイトです。
小川のせせらぎとか、静かな波の音とか、耳にやさしいネイチャー系BGMは確かに人気ですが、どうもボクにはしっくりこなくて。単調な繰り返し音は、なぜだか耳が引きつけられてしまって、かえって集中力を欠いてしまいます。歌詞がある楽曲、特に邦楽も日本語に耳が引っ張られて意識が散漫になってしまいます。
実のところCoffitivityは尺の長い音源を無限にループさせてはいるんですが(音源をリロードしてるのか数十分ごとに途中「ブツッ」という途切れる音が鳴る)、少なくともせせらぎや波の音のように数秒ごとに繰り返す音ではないため、耳が引っ張られることがありません。
Coffitivityと似たサイトにRainy Cafeがあります。ここはカフェの音とは別に雨音が用意されていて、どっちか片方だけを聞くことができますし、両方を一緒に聞くこともできます。個別にボリューム調整が可能なため、雨が降るオープンテラス(カフェ音:小、雨音:大)の音を擬似再現することもできちゃったりします。
あとはジャズ×雨音のjazzandrainなんてサイトもあります。
ノイズって実はもっと評価されてもイイんじゃない?
この系統のサービスに一定の需要がある。それ自体は自然だけど、こういう“作業用BGM”の役割というのは、ちょっと昔であればラジオが王様だったんじゃないかと思うことがあります。今もですかね? TVを付けっぱなしにしてBGMにしてる人がいるという話を聞いたことがありますが、シェアでいえば環境の制約を受けにくいラジオが圧倒的でしょう。今はネットで聞けるラジオradikoのおかげで、ラジオ受信機本体を持っていなくても気軽に聞けるようになりました。ありがとうradiko。ありがとう科学技術。
でもね…radikoにはノイズがない。音がクリア過ぎる。“ノイズこそがラジオの味”だと思うことがありませんか? ボクは思います。雑音が入らないようチューナーを調整しておきながら、それでも耳に入るノイズに苛立たしさを感じる。その一方で、時たま心地よさを感じてしまう瞬間があるんです。
ラジオの利用シーンで多数派なのは“ながら聞き”ではないでしょうか。勉強しながらラジオを聞く、食器を洗いながらラジオを聞く、ドライブしながらラジオを聞く…。TVやネットと違って、人との距離が絶妙に心地よいのがラジオで、その心地よさを後押ししている要因のひとつがノイズなんじゃないか、と思うんですよね。
イメージを図式にするとこんな感じでしょうか。
テレビ画面に砂嵐が入ると途端にイライラしますが、ラジオのノイズって何故か許せませんか?なんかそういうことなんじゃないかと思うんです。
不遇の長物ノイズ
上記で紹介したCoffitivityは、まさにノイズそのもの。“純粋なノイズ”です。外に出てしまえば当たり前のように溢れている雑音です。だけど、ノイズの向こうにあるものを各人が選択することができます。PCかスマホがあれば、いつでも、どこでも。
ところがBGMが欲しいと思った時に選択肢に入らないのもノイズだったりするわけです。
あぁ、いとかなしやノイズ。
BGMやラジオに限らず、無意識に意識化から除外しているノイズって、意外とそこら辺にコロコロ転がっているのかもしれないですね。
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